第1次ア・カペラブーム以来の底力を感じた
「コロナ禍でア・カペラ業界、コレはキッついわ~と思ったら、そうじゃなかったですね~。慶應義塾大学アカペラシンガーズK.O.E.25周年オリジナルソング『僕らの声』は凄かった。多分、コロナ禍というこのタイミングじゃないと出てこなかった作品だと思いますよ。」
そう語るのは、元RAG FAIRのメンバーで、現在は現役保育士としての顔ももつヴォーカルパーカッショニストの“おっくん”こと、奥村政佳(まさよし)さんです。楽器を使わずに人間の声だけで創り上げるア・カペラだからこそ、リモートでの演奏が可能だとする彼の発言は、ア・カペラやヒューマンビートボックス等がインターネットとの親和性が高いことを示唆しています。
読者の中には、インターネットを中心に広がったいわゆる第1次ア・カペラブーム(※ヴォイパ研究家の杉村一馬氏によれば2000年初頭)以来の大きなうねりが来ていることを実感している方も多いのではないでしょうか。クラシック音楽ではなかなかこうはいきません。合唱とも違う、個人競技でもない、超団体競技でもないスタイルとしてのア・カペラ文化は、インターネットという仮想環境の中で着実に生き延びています。これは、ヒューマンビートボックスでも同じことが言えるでしょう。
勝ち負けがない、だからヴォイパを始めた
「僕はねぇ~、敢えてビートボックスの世界を見てこなかったんです。」
そう語る奥村さんは、バトル文化としての面に馴染めなかったといいます。そして、ヴォイパを“空手の型”に準(なぞら)えて、相手を打ち負かすという文化ではないことを強調します。
「そのうち、“美しい8ビート”なんていう規定競技ができるんじゃないの~(冗談笑」
そう語る奥村さんに、杉村一馬さんも大きく頷きます。奥村さんの言葉の端々からは、ア・カペラ文化への愛が感じられます。自分がどうこうではなく、ア・カペラ文化全体に対する人間愛とても言ったらいいでしょうか。さらっと言ってのけていますが、ビートボックスバトルとは違った意味での競い合いがこの音楽文化をさらに大きなものにしていくのではないかという思いが伝わってきます。
ア・カペラの中でのヴォイパの魅力
一方、ビートボクサーの中でもご存じの方が多いア・カペラグループの代表格PENTATONIXのヴォイパは、たくさんの演奏技術を駆使しており、ア・カペラの中でも“技巧派”の部類と言えるでしょう。しかし、ビートボクサーから見ると少々物足りなさも感じる方もいるかもしれません。この点について、『ボイパを論考する』というサイトを運営している杉村一馬さんは、RockapellaのメンバーJeff Thacher(ジェフ・タッチャ―)そして、Wes Carroll(ウエス・キャロル)を例に挙げ、ヴォイパはヴォーカルとの親和性を大切にしつつ個性も発揮できるパートであり、地味な印象を受けるかもしれないが、ヒューマンビートボックスとは違ったヴォイパならではの魅力があると言います。
ア・カペラは歌。そして、ヴォーカルパーカッションも歌(これは、前回出演のKAZZさんも言ってましたね)歌の中で、ヴォーカルパーカッションを切り分けたければ、ビートボクサーのような演奏スタイルを目指せばいい。だからこそ、海外ではヒューマンビートボックスをヴォーカルパーカッションと区別しない人も多いのです。これは、日本国内でも見られる現象なのではないかと思います。これら二つを分け隔てする意味が薄れてきているのです。
商業ベース的だった時期も
「ヴォイパは売れる! 知られ始めた頃はヴォイパから遠い人も歌の教則本的に本を書いていたこともあった!」
ヴォイパを歌の一種と捉えて書かれた教則本が発売されていた時期もあります。(※動画では出版社や執筆者名は伏せてあります) ビートボクサーの“すらぷるため”さんは、「私は資本主義と戦っている!」と言っていたことがあります。これは、まさにこのようなことを意味するのでしょう。売れる売れないで判断される音楽表現ではなく、「いいね」の数でもなく、「再生回数」でもなく、自分軸をもった表現者としての自分でありたい、そう願っているビートボクサーやヴォイパの方は決して少なくないと思います。勿論、売れた方がお金も入りますし、広く知られることは決して悪いことではありません。でも、商業ベースに乗るということは悪いことではないけれど、大人の事情によって本当に自分が表現したいことが出来なくなることもある、ということは知っておく必要があるでしょう。
なぜ、教則本が必要とされたのか。それは、今のようにインターネットが普及しておらず、YouTubeのような動画もない中「バイブルを求めていたんだ」と奥村さんは言います。必要とする人がいるから、そのニーズに応える商品(この場合は本)が生まれるのです。この時代に発行された教則本(私の知る限りは3社から出版)は私の研究室にも研究資料として揃っています。でも、今はYouTubeやInstagramといった動画サイトがあります。
バイブルはそこにある・・・? ん~でもそれはバイブルなのかなぁ。バイブルに何を求めているかによると思うのですが、バイブルは大所高所から書かれた、学校で言えば校訓みたいなものです。もし、自動車の運転技能のように誰もが同じ技能を必要としているのなら、YouTubeの情報がバイブルである必要はなく、単なる教則本的な存在で十分なのではないかとも考えます。決して権威あるバイブルではなく、並列的な情報という関係性で、様々なYoutubeチャンネルが存在する・・・その方が文化や指導法の多様性からから考えると健全な姿なのではないかと思いますが、みなさんはどのようにお考えですか。
ビートボックスとヴォイパで交換留学してみたら面白そう
ビートボクサーのAFRAさんの生徒さんと“ボイパ道場”の主催者KAZZさんの生徒さんを一度交換してみたらいいんじゃないか、そんな話も飛び出しました。それは面白いという話になり、
「ビートボックスとヴォイパの二つを融合させたその草分け的存在は、Daichi君じゃないかな」
というのが奥村さんの意見でした。2008年か2009年頃の話です。そして、YouTuberという言葉の普及にも貢献したビートボクサーHIKAKINさんが登場したのです。リモートならコロナ禍の中でも交換留学は実現しそうです。私は直ぐにAFRAさんとKAZZさんに連絡したのでした・・・
(後編へ続く)
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yuki (火曜日, 02 3月 2021 23:19)
こんばんは。河本様。
恥ずかしい話、自分はア・カペラと、ビートボックスの違いは、最初は全然わからなかったでした。
同じ人の声で、音楽を奏でているのが、なんで違うの??と、思っていました。
が、やはり、コメントをする上で色々調べていくと、全然違う事だったんですねぇーー。
特に言葉を崩していくというのが、何だかビートボックスのほうが、より自分の魂に近い叫びを出しているような感じがしました。
商業ベースに乗るということは悪いことではないけれど、大人の事情によって本当に自分が表現したいことが出来なくなる。それはとても大切な事だと思います。
確かに商業ベースにするという事は、そこには決まってスポンサーがつくという事であり、あくまでもスポンサー目線での表現力が入ると思います。
ネットは発達した今の時代、ブログ、コラム等が誰の意見にも犯されないで、自分だけの表現が出来るという事は、とても素晴らしい事ですね。
河本洋一 (日曜日, 07 3月 2021 10:42)
yukiさん コメントありがとうございます!
一般の方にとっては、「ボイパ」という言葉の方がピンと来ると思います。表現と商業ベースの話は古くはベートーベンが生きていた18世紀にまで話は遡るのではないかと思います。世俗的な音楽を除く作品としての音楽(今で言うクラシック音楽のような類)の作者は、富裕層に囲われていて生きていて、ベートーベンあたりの時代から自立が始まったと考えられています。音楽が市民化したから、今私はこうやって自由に音楽を享受できるのかもしれません。(西洋音楽に関しては)
ビートボックスやボイパも、世俗的音楽だから囲われることなく自立を目指していくべきなのでしょう。今の時代、それを後押しするのがインターネットの存在です。これについては、第5回のコラムですらぷるためさんが少し触れています。是非ご覧ください。
商業ベースっていうと聞こえが悪いですが、自分の好きなアーティストを応援していると言うと、聞こえがいいですよね。その中間に手数料商売的に入ってくる人たち、環境整備のためにいる人たち等々、色々いてコロニーを形成していけると、その音楽は一つの文化圏を形成し、それを生業とする人も出てきます。
ただ、「音楽表現=生業(売れる)」という短絡的な思考をすることには、新たな文化を創造するという点から考えると、私は少々疑問はあります。どの分野にもマイノリティ的な存在があります。それが多様性を可能とし、ひょんなきっかけで、マジョリティ化することもあるわけですから。