※2016年7月26日のブログを加筆修正しています。
学生:「先生、指導案は、Word(※)で作成したほうがよいでしょうか。」
※マイクロソフト社の文書作成ソフトのWord
「キタ━(・∀・)━!!!!」学生指導の絶好のタイミングの到来です。この学生は、ある先生から公的文書はWordで作成することを強く勧められていたようです。でも、その学生は、手書きのほうがすぐに修正できるし、作成スピードも早いと言います。そこで、私は、次のようにコトバを返しました。
私:「この授業は、公的文書作成法の授業ではありません。もう一度、この授業のシラバスに授業の目的と到達目標がどのように掲げられているかを確認して判断してください。」
学生は、少し安堵の表情を浮かべます。その表情を確認して、私は次のようにコトバを加えました。
私:「少々乱暴な言い方をしますが、時と場合によっては、どうでもよいことは、どうでもよいのです。本当に必要なことに時間を割いてください。必ず死を迎える人間にとって、時間は有限の資源なのですから。」
私:「あっ、ただね、一般人には判読不能な達筆だったら、ごめんなさい。Wordを使ってください。」(学生一同、笑)
これ以上の返答は必要ありませんでした。その学生は指導案をどのように作成すべきかを、自らの判断で決めることができたようです。
「○○指導法」のような授業では、教師からの発問(教育界では、質問のことを発問ということが多い)の工夫については、メジャーな授業内容の一つです。 しかし、幼児や児童生徒からの質問の方法については、扱われることが少ないようです。(市販の○○指導法の教科書ではまず見かけません。)
でも、幼児や児童生徒の質問の質を高めることは、主体的に学ぶ姿勢を育てることに直結しますし、教師と幼児や児童生徒が共に授業という学びのコミュニティを形成していくことに繋がります。
ただ、悲しいかな、「センセー」という職業は、「教えなきゃ、教えなきゃ」っていう呪縛から解かれないことが多いのです。(←教員駆け出しの頃の私がまさにコレ)
「そこは違う、教えるんじゃなくて、気づかせるところーッ!!!」(←過去の自分に言っています)
幼稚園教育要領の「表現」の内容の取り扱いには、次のような一文が出てきます。
「生活の中で、様々な音、色、形、手触り、動きなどに、気づいたり感じたりするなどして楽しむ」
「気づく、感じる、楽しむ」
難しいのが、“気づくためのきっかけを教えること”と、“気付きそのものを教えてしまうこと”は似て非なるものであるということ。
???どう違うの?
「一人の質問、みんなの声」
「質問の質が、授業の質も高めます」
冬休み明けには、最終回の授業があります。毎年恒例の、この2つのコトバを学生に伝える日がやって来ます。
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